7月30日(木)快晴 <その1>

 

 5時すぎ、眼が覚めるとアンナ、ベッドの上で四つん這いになって呻いている。昨夜から何度めかの前駆陣痛で、この姿勢になると少し楽なのだそうだ。私が熟睡している間も全く眠れなかったという。とりあえず腰のマッサージ、多少は助けになるようだ。6時ごろ彼女、起き出して階下へ。私も従う。

 昨夜読んだ『催眠出産』に、収縮の痛みを和らげるのに「ライト・タッチ・マッサージ」が効果があると書いてあったので、急いでそのチャプターを読む。指の爪の先で触れるか触れぬかぐらいのタッチ、超スローのストロークをすると、「鳥肌が立つ」ような効果があり、エンドルフィンが分泌されて痛みを和らげるのだという。この動きで背中を腰から首までカヴァーする。これは使えそうだ。

 この間、バスルームから水音がするので、アンナはシャワーを浴びているものと思っていた。ずいぶん長い間浴びているので様子を見に行くと、バスタブに張ったお湯に浸かっている。ふと思いついてお風呂にすることにしたと言う。水温は38度、浸かってみると体が軽くなって楽なのだそう。浮力があるからだ。「それなら塩を入れたら浮力が増すから粗塩持って来ようか?」と訊くと、「あれはプールでやる本番の出産用に取っておいて」。これは前駆陣痛だから、やがて収まるだろうと二人で話す。

 アンナ、暑いと言うので窓開ける。

 「あっ、おしっこしちゃった、まあいいよね」。常識的に尿は無菌であることを知っているから、そう伝えると、「黄色い色も匂いもしないし」とアンナ。

 8時ごろから陣痛の長さと間隔とを私がストップウォッチで測ることに。三味線用の正座椅子をバスルームに持ち込んで、床に座る。だいたい、4分間隔ぐらいで収縮は毎回1-2分持続している。間隔が少しでも延びると二人して、この前駆陣痛が早く収まってくれることに期待をかける。他方、日本の医学の定義では10分以下の周期で起こる子宮収縮は本物の陣痛であると読んだ記憶がある、とアンナに話す。だとすると、これは本格的な陣痛なのだろうか。

 収縮が来るとアンナは自然に腹式呼吸をしている。彼女は息を吐きだしながらメゾソプラノで澄んだ美しい声を出している。一定の音程をキープするので、音楽的だ。彼女が気の向くままに歌を口ずさむことは、日常しばしばだけれどシンガーではないから、初めて聴く思いがけないシンギィングヴォイスの発見だ。何故か脈絡もなしに「人魚の歌」という形容が脳裏を横切る。『夫のコーチする出産』にも収縮の時には腹式呼吸が肝要とあって、そのテクニックも紹介されていたけれど、アンナの歌声を聴いているとテクニックなどクソ食らえだと思えてくる。第一、陣痛の時は理論的思考は邪魔になるというから彼女自身の感じるままにやっているのが何よりだ。

 『夫のコーチする出産』も『催眠出産』も陣痛が来ている間は妊婦の邪魔をしないように、と書いてあったのを思い出して、話しかけないように努めるが、なかなか難しい。パートナーがつらそうにしている時、放っておくのは不自然に感じられる。他方、インターバルの間は、私も「コーチとして」彼女にアドバイスを出したりする。水を飲むように勧める。エネルギー源が必要と思い、スイカを一口大に切って食べさせる。オレンジジュースを勧めるが「水のほうがいい」。額の汗を拭ってやりなさいと、どこかで読んだので、そのジェスチャーをすると「アイスパッド持ってきて」というので、持ってくる。これが冷たくなくなると取り替える。だがこれらの「サービス」は時間的に見れば相対的にずっと短く、それ以外の時間はひたすら座って待つ。

 「いつまでこれ続くのかなあ。今からこんなに辛いのに、本当の陣痛になったらどうなるのかしら」と言うので、「逆にこれが本物の陣痛であってくれたら、ありがたいのになあ」と答える。

 痛みの間隔は徐々に短くなってきているようだ。

 とにかく水をどんどん飲んでもらう。アイスキューブを持ってきて口に入れてやったが、「大きすぎる」。

 彼女は色々な姿勢を試している。バスタブの端にもたれかかったり、正座したり、四つん這いになったり、立ったり、しゃがんだり。立って腰をぐるぐる回すベリーダンスのような動きもしている。これは出産のヴィデオで見たことがあるが、アンナはほとんど身体の赴くまま、自発的にやっているようだ。

 私も腹ごしらえしないと。朝からバナナ一本しか口に入れていない。「何か食べる物持ってくる」と言うと、「私を一人にしないで。出来るだけ早く帰って来て」とアンナ。頼りにしてくれているのだ、と内心嬉しくなる。『催眠出産』に「パートナーの存在感」とあったのはこういうことだったのか。

 10時半ごろ、15分ぐらいの長めのインターバルが続けて二回。合わせて半時間、アンナはバスタブにもたれてようやくの休息。眼を閉じてうたた寝しているようだ。私も正座椅子に座ったままウトウトする。待望の安らかなひと時だ。これで終わってくれれば良い。

 ところがこの安息のあと、アンナの声が一変した。それまでの美しいヴォカリーズに代わって、もはや人目ならぬ人耳に憚ることなく、一心に唸るような叫びをあげるようになった。

 「これは本物の陣痛だと思う」と言うと、「もうこれ以上、私、無理」と彼女。「君の身体を信頼しよう、言い換えれば、サニーを信頼しよう。この懐妊を我々が知る前から、君の身体は君をガイドして来た、そして君はそれをずっと信頼して来た。昨夜からの色々な姿勢や呼吸法、ベリーダンスだってそうだ。今こそ、信頼しよう」「本当ね」。そしてまた叫びに戻って行った。

 「私もう、これ以上ダメ。助産婦、来て欲しい」。

 私が助産婦のエルザに電話すると、

エルザ:Ich bin krank, und kann nicht kommen...(病気で行けません)

私:

 

<その2>に続く

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