6月3日(水)晴れ
今日から新しいパターンを試行する。7時半起床、アンナを起こさずベッドを抜け出して階下へ。わずかばかり残してあった最後の緑茶を奢る。8時より書き物。陽の光がテーブルに射し込んですがすがしい。
9時過ぎアンナ起きてくる。ゆうべはサニーが最初しゃっくりしていたが、すぐに眠りに落ち、ぐっすり眠れたとのこと。
ヨガがひと通り終わり、瞑想に入ろうとしたときに玄関のベルが鳴る。配達?私が出てみると通り向かいの老婦人が、おしゃれなダークレッドのキャスケット帽と同色の太いウエストリボン、それに赤い靴という装いで、あでやかな牡丹の花束を抱えて立っておられる。すぐにアンナを呼んでくる。というのも、この朝アンナが前庭で水やりをしていたとき、老婦人がタクシーから降り、タクシーが行ってしまった後に転倒された。お一人では起き上がれなかったのを、アンナが助けてあげたのだ。その御礼に庭の牡丹を6輪、まだ固い蕾のものからすでに満開のものまで選んで届けてくださったのだ。一輪一輪、順に花開くようにという配慮だ。紅と淡いピンクとの素晴らしい色彩、そして芳香。この晴れた朝にふさわしい、何よりの贈り物だ。加えてラズベリークリーム入りのチョコレート。あたかもアンナの好みを見抜いたよう。「私のおばあちゃんがチョコレートくれたような感じだわ」。花はすぐに備前の花入れに活ける。土の微妙で控え目な色彩が華麗な花を引き立てて妙。しばらくはダイニングのテーブルで我々の眼を楽しませてくれるだろう。
午後、久しぶりにアンナのご両親を訪問する。ずっと延び延びになっていたのにはコロナ禍以外の理由がある。アンナは、姉3人、兄1人、一番近いお兄さんでも10歳上という末っ子で、家族との関係は実は少し微妙なものがある。今回の妊娠も、家族からの干渉を出来るだけ避け、自分のやりたいようにやりたいというのがアンナの最初からの希望だった。それで我々二人は今まで懐妊の公表を意識的に避け、そして実家の訪問も延期してきたのだ。
午後2時過ぎに出発。ご両親はハラインからさらに南、ビショフスホーフェンの近く、標高800メートルの閑静なところに住んでおられる。車で半時間、途上、アイスクリームを買ってゆく。皆でおやつをという趣向だ。ご両親はちょうどお兄さんの2つになる娘、レナちゃんのベイビーシッティング中だった。歓迎してくださる。日なたは少し暑いぐらいの陽気で、テラスにパラソルを立てて即席アイスクリームパーラーとなった。
皆で連れだって森へ。天空に向かってまっすぐ聳える針葉樹が並ぶ、美しい森だ。レナちゃんは松ぼっくり(というよりは樅ぼっくり)にご執心、拾っては袋に入れている。これを見てアンナ、「私も同じことやったわ」。そう、ここはアンナが幼少時に、自分のポケットのように知り尽くしていた遊び場だったのだ。友達と、あるいは一人でこの森に来ては、時間を忘れるようにして過ごしたという。自然の中でのびのびと育ったアンナは何と幸せなのだろう。サニーも同じようなことができるといいなと思う。
森歩きから戻ると、隣に住んでいるお兄さんが顔を出す。アンナを見るなり半分ユーモラスに「お腹出てるじゃん!」。こうしてアンナの妊娠は公然の事実になった。実はご両親は前回の訪問時すでにうすうす気付いておられたが、きっかけがなくて話を切り出すのをずっと躊躇しておられたらしい。ご両親とも喜んでくださる。お母さんはいつかアンナに子供が出来ることを願っておられたので特に嬉しいとのこと。
誘われるままに、早めの軽い夕食をテラスでご馳走になる。お兄さんとレナちゃんも同席。食後、お母さんの淹れてくださった特製ハーブティーの豊かな風味を楽しんでいると、カウベルの音がする。見ると隣の農家の一家が総出で乳牛を五頭、牧草地から連れて帰るところだった。今日が今シーズン初めて。これからしばらく連日、夕刻に牛を連れて来ては搾乳をして、翌朝また別の牧草地に連れて行くのだそうだ。カウベルのやわらかな響きが次第に遠ざかり、少し冷たさを帯びてきた夕暮れの大気に溶け込んでゆくのを、私は感興とともに聴いていた。


